教科書を読んでいても、日本史の流れが掴みにくくないですか?
流れをつかみたいのであれば、ストーリーにして読むのがおすすめです。
私は、歴史小説や漫画を読んで理解を深めることができました。
そこで今回は、日本史の流れをつかんでほしいため、中世についてまとめています。
鎌倉時代
源頼朝が鎌倉幕府を開きました。

主従関係が確立されていきます。
鎌倉幕府を開いていった流れを確認していきましょう。
鎌倉幕府を開いていった流れをざっくり確認
平安時代後期になると、藤原氏の権力が衰えていき、天皇は自分で政治を行うようになりました。
↓自分で政治を行った天皇
後三条→後白河→鳥羽
鳥羽上皇が崩御。
後継者争いが始まりました。
{後白河天皇(弟)VS崇徳上皇(兄)}
しかし、決着がつきません。
なので、武士たちを参加させて力による合戦になります。(保元の乱)

ここで源氏と平氏が出てきますよ

結果は、弟の後白河天皇側が勝利しました。
乱後、平氏優遇の褒賞に不満をもった源義朝はクーデターを起こします。(平治の乱)

平氏が優遇されたのは天皇のお気に入りだからだよ
が失敗して二人とも死にました。
勝ち残った平清盛は、義朝の子 頼朝を流罪にします。

頼朝の父です。
息子たちよがんばれ...

平清盛は、一気に昇進し貴族の頂点になり政治に手を出していきます。

最近後白河が俺を殺す計画をしてたとか...
なので、後白河法皇を幽閉します。
治承・寿永じしょうじゅえいの内乱(平氏VS源氏)
これを知った後白河法皇の息子は...

父上(後白河)を助けて清盛を倒しなさい
と以仁王が令旨を出しました。
全国に令旨が広がり、源氏などが挙兵します。
平家軍は敗北し続け、西へ西へ(九州方面)逃げていきます。
最終決戦 壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡しました。

壇ノ浦の戦いで三種の神器の一つが無くなったんだよ...
以仁王の挙兵からの一連の流れを治承・寿永の内乱といいます。
平氏がいなくなって平和になった...わけではありませんでした。
頼朝は、脅威となる存在を排除していきます。身内でさえも...
そうして、頼朝に対抗できる人はいなくなりました。
頼朝は征夷大将軍になりました。

征夷大将軍のいるところを『幕府』と呼ぶよ
鎌倉幕府の流れを見ていきましょう
後白河が頼朝に高い位をあげました。

私は貴族です。
武家政権と公家政権の二重支配が始まります。
武家政権は主従関係を確立していきました。
下図は、御恩と奉公の構図になります。

下図は、鎌倉幕府の政治機構をざっくりとまとめたものです。

頼朝が落馬して(真相は謎ですが)死にます。
代わりに北条氏(頼朝の妻の一族)が政治を支えていきます。(執権)

頼朝の妻よ
私が一番の権力者ってとこかしら
ですが、絶対的な支配者がいなくななったので御家人たちは乱を起こします。
- 梶原景時の乱:調子に乗りすぎてみんなの反発をもらい、一族もろとも滅亡。
- 比企能員の乱:執権の座を狙っていたため、一族もろとも滅亡。
- 畠山重忠の乱:北条氏と対立し、滅亡。
- 平賀朝雅の乱:乱というか執権事件に平賀朝雅が巻き込まれた。(諸説あり)
- 和田義盛の乱:政子の弟 義時が侍所の和田義盛とその一族を挑発し、一族もろとも滅亡。
都でじっと見ていた後鳥羽上皇は今がチャンスでは!?と思い鎌倉幕府を滅ぼそうとします。
(承久の乱)

命令だ!北条義時を討つのじゃ!!
鎌倉武士はみな動揺します。
それを見た政子は、御家人を集めて演説しました。

頼朝が幕府を開いてお前達の生活を豊かにしたのを忘れたか?
その恩への気持ちは浅くはないだろう...。
京都に行った御家人の一部は後鳥羽についた。
幕府存続のために戦ってくれ。
幕府軍は京に攻め入り圧勝しました。
後鳥羽上皇は、隠岐へ島流しにされます。
後鳥羽方についた貴族や武士の土地を没収します。
そして、二度とこのようなことが起きないように六波羅探題(京都で朝廷を監視すること)を設置します。
その後、法律を出しました(御成敗式目)
- 裁判の基準を定めて公平な裁判を実現させます
- 守護たちは自分の仕事だけやりなさい
- 20年放置されている土地は時効になります
- 娘や息子に所領を与えた後、不和になったら親はいつでも取り返せます
- 女の御家人は養子をもらうことを許可します

幕府は京都の法律の専門家の見解を参考にして作ったんだよ
時代が進むにつれ、執権を中心とする支配体制は強固なものとなります。
ある日、元(モンゴル)から手紙が届きました。
服属を要求す。
フビライ=ハンより

なんだこれ、無視でいいか
はい、戦争。(元寇)

鎌倉幕府が勝ちました。
相手は外国だったので、戦費の負担が大きい。
戦争が終わり恩賞が不足していることに気づいた幕府は、永仁の徳政令を出します。
永仁の徳政令とは?
貧窮化した御家人たちを経済的に救う法
御家人を対象
に20年以上たった土地は取り返してはいけない。
- 20年以上たった土地は元の持ち主が取り返してはいけない
それ以外は無償で取り返していい - 一度判決が出た裁判を訴え直してはいけない
- お金を借りてはいけない
しかし、御家人の不満が溜まっていき、悪党まで出てきます。
鎌倉幕府滅亡

今がチャンス!
後醍醐天皇が即位したことで大きく歴史が動きました。
幕府打倒を目指し、挙兵を計画しますが失敗し、遂には隠岐へ流されてしまいます。

楠木正成ら反幕府勢力が挙兵して、後醍醐天皇を助けて京に戻しました。
鎌倉幕府からも軍隊が出発しました。
この鎌倉軍を率いていたのが有力御家人 足利高氏でした。
途中で足利高氏は幕府に背いて六波羅探題を攻め京都を制圧。

後醍醐天皇から名を頂きました。
これからは、足利尊氏です。
そして、鎌倉幕府には新田義貞軍にが攻め入り北条高時を滅亡させました。
こうして鎌倉幕府は滅亡しました。
南北朝時代
また天皇による政治の時代になります。
後醍醐天皇が新しい政治に取り組んでいきますが、独裁化していきます。

私がやったことは後に伝統になるので
皆さんやりましょうね。
後醍醐天皇の気に入る者は出世するため、能力がすべての下剋上の風潮が広がります。
天皇は命令をポンポン出すもんだから偽物まで出てきます。
これには一般の人も混乱し、支持率が駄々下がりしました。
京都の混乱を見て武家たちが鎌倉へ攻めてきます。(中先代の乱)
尊氏は、急いで鎌倉に向かいそのまま居座りました。

もう後醍醐天皇とは協力しない!!!
なんで独裁化してんのよ!!
その後、尊氏は京都へ攻め入りますが負けて九州まで逃げます。
九州で体制を整えてまた京都に攻め入りました。
足利尊氏は勝利をおさめました。
南北朝時代の始まり
しかし、後醍醐天皇はあきらめていませんでした。
後醍醐天皇は尊氏が怖いので京都から奈良へ逃げていきました。

三種の神器を持ってね。
尊氏が立てた光明天皇と後醍醐天皇の対立。
光明天皇は足利尊氏を征夷大将軍にして室町幕府が発足しました。
また幕府と朝廷の二頭政治になります。
京都(北)は、光明天皇 奈良(南)は、後醍醐天皇 で南北に分かれました。
後醍醐天皇が亡くなっても後村上天皇を即位させ、南北の戦いは続きます。
でも、足利義満が南の天皇(後亀山天皇)にもう終わりにしましょうと説得しにきました。

もうやめようや
説得のかいあって南北朝が合体して新しい天皇が即位します。
次は、義満の政治を見ていきましょう。今回はここまでです。
まとめ
なんとなく流れはつかめましたか?
簡単にまとめると、
鎌倉時代は、武士の政権が誕生した時代です。
南北朝時代は、朝廷が2つあった時代です。